-
子どもの文化人類学|原 ひろ子
¥1,100
筑摩書房 2023年 ちくま学芸文庫 ソフトカバー 272ページ 文庫判 - 内容紹介 - 極北のインディアンたちは子育てを「あそび」とし、性別や血縁に関係なく楽しんだ。親子、子どもの姿をいきいきと豊かに描いた名著。 解説 奥野克巳 === 極北の雪原に生きる狩猟民ヘヤー・インディアンたちにとって、子育ては「あそび」であり日々のこの上ない楽しみだった。ジャカルタの裏町に住むイスラム教徒は、子どもの喧嘩を「本人同士のビジネス」と言って止めずに眺めていた。本書は、環境や習慣が異なる社会における親子、子どものありかたをいきいきと描き出した文化人類学的エッセイである。どのような社会に生まれても子どもは幅広い可能性を内包しながら成長していくことが、みずからのフィールドワーク経験をもとにつづられる。鮮彩なエピソードの数々が胸を打つ名著。 === 成長の道はひとつではない 子どもの豊かな可能性をひらく名著 === 目次 1切ることと創ること 2親の仕事を知らない子どもたち 3からだとつきあう その一 4からだとつきあう その二 5一人で生きること 6けんかをどうとめるか 7親子のつながり 8あそび仲間のこと 9「あそび」としての子育て 10「親にならない」という決断 11自然の中で作るおもちゃ 12きびしい自然の中の子育て 13〝自然みしり〞をする 14「子どもぎらい」の文化 15母系制社会の子ども 16男女の分業について 17キブツの男女・親子関係 18バングラデシュの女の子たち 19〝がめつさ〞について 20男の子の「家出」について 21しつけの男女差 22離婚と子ども その一 23離婚と子ども その二 24ディズニーランドの文化 25文化のなかの教育 その一 26文化のなかの教育 その二 27文化のなかの教育 その三 あとがき 解説(奥野克巳) - 著者プロフィール - 原 ひろ子(はら・ひろこ):1934-2019年。東京大学教養学部卒業。ブリンマー大学大学院修了。文化人類学、ジェンダー研究が専門。拓殖大学助教授、法政大学助教授、お茶の水女子大学名誉教授などを歴任した。主な著書に『ヘヤー・インディアンとその世界』、『極北のインディアン』、『人間はわかりあえるか──ある文化人類学者の旅』、『しつけ』(共著)などがある。
-
送別の餃子 中国・都市と農村肖像画|井口淳子
¥1,980
灯光舎 2021年 ソフトカバー 224ページ A5変型判 縦148mm 横195mm 厚さ15mm - 内容紹介 - 中国の北方では、人々は別れの時に、手作りの水餃子を囲んでその別れを惜しむという。 自身の研究分野を「民族音楽学」に決めた著者が選んだ調査地は中国の農村。1988年、文化大革命後に「改革開放」へと舵をきった中国で、右も左もわからぬまま「研究」への情熱と未知なる大地へのあこがれだけで、彼女のフィールド調査がはじまった。 中国の都市や農村での調査をきっかけにさまざまな出会いがあった。「怖いものはない」という皮肉屋の作家、強烈な個性で周囲の人々を魅了し野望を果たす劇団座長、黄土高原につかの間の悦楽をもたらす盲目の芸人たち……「親切な人」とか「ずる賢い人」といった一言では表現できない、あまりにも人間臭い人々がここにはいる。それぞれの物語で描かれている風土と生命力あふれる登場人物に心うごかされ、人の心のありようについて考えてみたくなる。 1988年以降の中国という大きな舞台を駆け巡った数十年間には無数の出会いと別れがあった。その中から生まれた14の物語をつづったエッセイを、40以上のイラストとともにお届けします。 イラスト:佐々木 優(イラストレーター) 目次 はじめに 序 まだはじまっていないころのお話 Ⅰ 河北省編 第一章 老師的恋 第二章 北京の女人 第三章 ゆりかごの村 第四章 占いか、はたまた芸人か Ⅱ 黄土高原編 第五章 雨乞いの夏 第六章 村の女たち、男たち 第七章 黄河治水局のおじさん 第八章 尿盆(ニァオペン) 第九章 人生も戯のごとく Ⅲ 番外編 第一〇章 頑固じいさんと影絵芝居 第一一章 かくも長き一八年 第一二章 パリの台湾人 第一三章 想家(シァンジァー) 第一四章 人を信じよ! あとがき 参考文献 前書きなど 「はじめに」により 一部要約し掲載 日本では「やさしい」ということばが好まれる。「やさしい人に育ってほしい」、「心やさしい」などと頻繁に使うことばだが、中国語にはこの「やさしい」にあたる単語がない。近いことばとして「親切」、「温和」、「老実」などがあげられるが、いずれも親切、おだやか、誠実といった意味で、やさしい、にぴったり一致しない。 なぜだろうか。 中国ではやさしさという曖昧なものを必要としないからだと思われる。 きびしい気候風土と生存競争のなかで、生きるか死ぬかという局面にさらされてきた人びとにとって、他人にやさしさを求めたり、自分が他者にやさしくしたりする必要はないのだ。ところが、わたし自身、何度も中国で人の温情に触れ、助けられてきた。もし、中国のどこかで本当に困り果てていたなら、すぐに周囲の人が身振り手振りで助けてくれると断言できる。外国人だからといって無視したり、困っているのを放っておいたりすることは絶対ありえない。その理由は一言でいうなら相手が自分と同じ「人」だからだ。同じ国、同じ町の住人という以前に同じ「人」であるという大きな前提がある。その構えの大きさ、おおらかさゆえにわたしのような体力も語学力もない者がこれまで中国に通うことができたのだと思う。 さて、この本のテーマは「中国」ではなく、あくまで「人」である。それもよくありがちな「中国人とは〇〇な人びとである」と一くくりにする中国人論ではなく、わたし自身が中国で出会ったあまたの人びとのなかで、今なお記憶のなかでひときわ光を放ちつづける個々人についての本である。 思い返せば民族音楽学を学ぶ大学院生であった1987年以来、30年以上ものあいだ中国に通い農村や北京、上海などの大都市で短期、長期の滞在をくり返してきた。それらは一過性の旅ではなく、研究のためのフィールドワーク(現地調査)であった。旅とフィールドワーク、どちらにも現地の人との出会いがある。旅の出会いではお互いが相手を気に入らなければ付き合わなくてもよい。しかしフィールドワークでは長期間、かつくり返し訪問するなど交流が長くつづき、またお互いに気に入らない、ギクシャクすると感じても、関係は一定期間つづくことになる。この、相手にとってなかば強制的な関係からして、フィールドワークは対等な関係ではなく、調査する側とされる側の力関係は植民地主義的だと批判されつづけてきた。勝手にやってきて一方的に調査し、一方的に書いて発表する、その行為への批判をフィールドワークは背負っている。 もうひとつ、旅でもフィールドワークでもない出会いとして、ビジネスがある。10万人ともいわれる日本人中国駐在者も現地の人びとと長期にわたり密に接することになる。この場合、ビジネス・パートナーとして目の前にあらわれる相手はある特定の業種や資格をもつ人に限定され利害関係の枠組みをはずすことはできないであろう。 こう考えると、フィールドワークとはなんと牧歌的で無限の可能性を秘めた出会いの場なのかと思う。フィールドワークという通行証をもってすれば、その地について何も知らない赤ん坊のような状態から根気強くありとあらゆることを現地で教えてもらうことも不可能ではない。うまくいけば異文化研究の最強の方法だが、よき時、よき人、よき村やコミュニティにめぐり合うという幸運に恵まれれば、という条件がつく。 さて、フィールドワークで出会った人びとの記憶、それはわたしの場合、30年を経て、薄れるどころか、ますます鮮烈に思い起こされるようになってきた。この10年ほどを上海、それも租界時代というアヘン戦争以来100年間、英仏など西欧列強が支配した時期の資料調査に費やしたことも、かつての農村体験をあらためて見直すきっかけになった。それほどまでにくり返し思い起こされる体験なのにこれまで「人」をテーマに書き、公開したことはほとんどなかった。 なぜ書かなかったのだろうか。その最大の理由としてフィールドワークは手段であり、目的ではない、という答えがある。フィールドワークをおこなう前提となるのが、研究者と現地協力者との信頼関係(ラポール)である。このラポールの構築についてはいわば個々の研究者の「秘技」とされており、文化人類学の「民族誌(エスノグラフィ)」や論文といった成果のなかで記述されることは少ない。フィールドノート(調査地での記録ノート)においても記録対象からはずされるのが、現地の人びととの生々しい関係についてである。書き記すにはあまりに微妙で、感情が絡む事象であるがゆえに無意識、あるいは意識的に記録からはずしてしまうのだ。 われわれがこの種の秘技の片鱗に触れたいと思うなら、フィールドワーカーの「回顧録」や、民族誌の「あとがき」のなかなどで読むことができるかもしれない。一般的には個々の研究者がどのように人びとと関係し、手痛い失敗を重ねながら、徐々に親密な関係になっていくのかということは、知りたいと思ってもなかなか知りえない聖域のように思う。 また、調査実施から一定の時間を置かないと書くことができない、という問題もある。わたしも今になって、1980代、90年代のまだ十分に社会主義的であった中国農村での体験を客観的にとらえ直すことができるようになったと感じている。渦中においては「なぜそのようなことが?」とわけがわからなかったことが今となってはストンと理解できることも多い。 本書では、これまで学術論文や研究書で書くことのなかった、忘れがたい人びととの記憶の一コマ一コマを文章でよみがえらせようとした。だからといって甘い感傷にひたるようなものではなく、失敗だらけの苦い体験のなかにぽっかりと薄日がさすような、そんな記憶だ。 中国で出会った人びとについて書きたいという衝動はじつのところ今から17年前のドイツ滞在時、半年間の研究休暇中にわたしのなかで膨らみはじめていた。 […]滞在の時間を重ねるにつれ、あることにはた、と気がついた。それは、「ヨーロッパではこの先、どのように滞在年数を重ねたとしても、中国で経験した、人びととの濃密で心揺さぶられるような交流を体験することはないだろう」ということだった。ことばの問題とか、文化的距離とかそういったハードルはあるとしてもそれだけが要因ではない。中国の村々や街で目にした混沌と矛盾、人びとのむき出しの感情、みずからの心の振幅、そういったすべての経験が、ドイツのように人と人が価値観を共有し、法を守り、すべてがきちんと整理された国に身を置くことで、あらためてかけがえのない体験だったと思えてきた。 中国農村での、あるときは身を震わせて怒り、またあるときは涙を滂沱と流した日々。わずか2日にもみたない出会いと別れであったにもかかわらず、今なおその声や表情までもがよみがえるひとりの男……。 それにしても、あらためて1980年代から今までを振り返ったとき、この30年あまりは中国未曾有の変化のときであったと感じる。たとえば、上海。1987年に最初の調査地に選んだのが、上海、蘇州の近郊農村だった。農村は言うに及ばず、上海のメインストリートである南京路でさえ、夜は街灯が数えるほどしかないため暗く、上海のシンボル的建築、和平飯店の前で撮影した写真にはグレーや紺の簡素な洋服を着た老若男女が写っている。1990年代までは日本のほうが先進国と思っていたが、2000年代に入ると上海はみるみるうちに未来都市へと変貌をとげ、あっさりと日本の大都市を追い抜いていった。 そういえば、かつては日本から中国に出かける場合、旅費や滞在費は言うまでもなく自己負担、向こうから人を招聘する場合は全額を日本側が負担するのが暗黙の了解だった。それが今では完全に逆転し、中国から高額の講演料が支払われたり、こちらが旅費込みで招待されたりする状況になっている。昔ながらの経済的優越感をもって中国に出かけるなら、かなりの落ち込みを体験する羽目になる。 農村の変化も都市にひけをとらない。ある村や街の様子を探るべくインターネットで情報を探すと、「これがあの街?」と目を疑うようなビルが林立する写真が出てくる。また通信アプリでどのような奥地の知人とも簡単に連絡をとることができる。かつては村から十数キロ先の郵便局まで出かけ電報を打っていたのに、固定電話という段階を経ずにいきなり電報から携帯電話に移行したのだ。自嘲的に「われわれの村は落後(どうしようもなく遅れている)だ」、と農村幹部が首を振りつつ嘆いていた農村は表面的には過去のものになった。 それでも、そう簡単に変わらないのが「人」なのだ。[…] 版元から一言 この書籍は、中国の食べ物や黄土高原の窰洞(ヤオトン)などの風土、そして研究の対象となった語り物芸能などの描写も見どころですが、特に描かれているものは、「人」そのものです。素朴で、何気ない物語のなかの人物たちは「○○な人」という言葉で表現できない人間臭い、癖のある、生命力に満ちた中国や台湾の人々。著者・井口さんと飾り気のない登場人物との交流からうまれる互いの喜怒哀楽が真っ正直に描かれています。 皮肉屋でも、どこか憎めない魅力をもつ楽亭県の作家、優雅な立ち振る舞いで回りを魅了し、うまくその人達を利用する劇団座長や、黄土高原に住むおだやかな盲目の音楽家などの姿を見ていると、人の心のありようについて考えてみたくなる気がします。 そして、今回はイラストレーター・佐々木優さんの40もの筆力ある線画がこの物語に彩りを与えてくれました。さまざまな風景や人物の表情などが豊かに描かれています。 あとがきには「読者が、中国を自分の眼で見てみようというきっかけになれば…」と記されています。物語の光景を頭に描きながら原稿を読んでいて、ふと我にかえると、違う国を訪れること、人々とふれあうことが「いまはそう簡単にできることじゃないな」と感じます。 国を越えるのにも、人々が互いに顔を突き合わせて話すことも、なかなか難しい状況がずっと続いています。物語の中で描かれた何気ない人と人の会話に、改めて「いま」を思いました。井口さんの体験と想いのつまった出会いと別れの14章はみなさんの心に何を残すのでしょうか。 もともとは「民族音楽学」の研究調査がきっかけで生まれた本ですが、決して専門的な書籍ではなく、エッセイであり人を描いた「文学」でもあると思います。多くの方々に手に取っていただければ幸いです。 - 著者プロフィール - 井口淳子 (イグチジュンコ) (著/文) 専門は音楽学、民族音楽学。大阪音楽大学音楽学部教授。大阪大学大学院文学研究科博士課程単位取得、文学博士。主な研究テーマは中国の音楽・芸能、近代アジアの洋楽受容。 主な著書に『亡命者たちの上海楽壇 ― 租界の音楽とバレエ』2019年、音楽之友社。『中国北方農村の口承文化―語り物の書・テキスト・パフォーマンス』1999年、風響社など。
-
人類学者K ロスト・イン・ザ・フォレス|奥野 克巳
¥1,870
亜紀書房 2022年 ソフトカバー 208ページ 四六判 - 内容紹介- 《話題の人類学者による初のノンフィクション!》 ──まるで小説のようなフィールド体験記 ---------------------- 日本を飛び出し、ボルネオ島の熱帯雨林に生きる狩猟民「プナン」のもとで調査を始める「K」。 彼らは、未来や過去の観念を持たず、死者のあらゆる痕跡を消し去り、反省や謝罪をせず、欲を捨て、現在だけに生きている。 Kは、自分とまるで異なる価値観と生き方に圧倒されながらも、少しずつその世界に入り込んでいく……。 目次 ■プロローグ……森を撃つ ■多自然 ▶︎インタールード──ジャカルタのモエ・エ・シャンドン ■時間性 ▶︎インタールード──見失い ■無所有 ▶︎インタールード──明石先生のこと ■人類学 ■エピローグ……ロスト・イン・ザ・フォレスト - 著者プロフィール - 奥野 克巳 (オクノ カツミ) (著/文) 立教大学異文化コミュニケーション学部教授。1962年生まれ。20歳でメキシコ・シエラマドレ山脈先住民テペワノの村に滞在し、バングラデシュで上座部仏教の僧となり、トルコのクルディスタンを旅し、インドネシアを一年間経巡った後に人類学を専攻。1994~95年に東南アジア・ボルネオ島焼畑民カリスのシャーマニズムと呪術の調査研究、2006年以降、同島の狩猟民プナンのフィールドワーク。 著作に、『これからの時代を生き抜くための文化人類学入門』『絡まり合う生命』『マンガ人類学講義』『モノも石も死者も生きている世界の民から人類学者が教わったこと』『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』など。共訳書に、エドゥアルド・コーン著『森は考える』ティム・インゴルド著『人類学とは何か』など。
-
不穏な熱帯 人間〈以前〉と〈以後〉の人類学|里見 龍樹
¥2,970
河出書房新社 2022年 ハードカバー 450ページ 四六変型判 縦195mm 横138mm 厚さ33mm - 内容紹介 - 東日本大震災の直後、 南太平洋の島々でのフィールドワークは、 文化と自然の境界が揺らぐ領域へと私を導いた――。 人類学の新時代を告げる衝撃作! * * * 文化人類学者がうらやましい。 彼らにあっては地理的冒険と知的冒険が重なり合っている。 南洋の島のわずか3か月の調査行がかくも豊かな実を結ぶ。 人間とはいかなる存在であるかを教えてくれる。 ――池澤夏樹(作家) 南西太平洋の「海の民」の思考から、 人新世の時代に必要な画期的な「自然」の概念が導かれる。 民族誌の極と理論の極の間の激しい往復に興奮した。 ――大澤真幸(社会学) * * * 東日本大震災から間もない2011年7月、若き人類学者は南太平洋でのフィールドワークに赴いた。岩を積み上げて人工の島を築く人々。海を隔てて届いた「ツナミ」。間近に迫った教会の祭典。村の隠された歴史と一人の女性との出会い。そして、ある日の暴風によって聖なる茂みの大木が倒れたことをきっかけに、事態は思いもよらない方向に動き出し――。 フィールドワークに基づく近代人類学の誕生から100年、「ポストコロニアリズム」「存在論的転回」「マルチスピーシーズ民族誌」などを経て、人類学はどこへ向かうのか? 南太平洋でのフィールドワークと哲学/思想や文学を峻烈に交差させ、人類学を「外部としての自然」へと解き放つ新たなる思考。人類学的思考の根源を現代に回復し、世界の見方を根底から変える衝撃作。 * * * [目次] はじめに 第1部 他者 第1章 人類学/民族誌の現在 1マライタ島へ 2フォウバイタ村 3島々 4「文化を書く」――人類学/民族誌批判の展開 5問い直される人類学/民族誌 6フォウイアシ島 7ディメ 8民族誌をめぐる実験――テクスト性の問題 9バハイ 第2章 浮上する「自然」 1「ツナミ」の夜 2「故地に帰る」 3存在論的転回――「単一の自然/複数の自然」の問題 4「世界青年の日」 5「本当の土地所有者」 6夜の村で 7広義の自然――ヴィヴェイロス・デ・カストロの「多自然主義」 8いくつもの「存在論」――デスコラの「自然の人類学」 9コイナ 第2部 歴史 第3章 歴史に抗する島々 1殺戮の夜 2謎としての歴史 3交換論とその彼岸 4島々の歴史を書く――マリノフスキから歴史人類学へ 5「歴史なき島々」と「歴史の中の島々」の間で――サーリンズの歴史人類学 6植民地史の中の島々――サーリンズからトーマスへ 7アシの島々の形成史 8「戦闘の時代」 9「法律が来た」 第4章 イメージとしての島々 1「カストムの時代」の島々 2戦闘と戦士 3戦闘と移住 4戦闘の装置としての島々 5歴史からイメージへ――ストラザーンの歴史人類学批判 6「新しい」島々 7「語ることができない」歴史 8忘れっぽい景観――メラネシアにおける「歴史」と「自然」 9倒れた木 第3部 第5章 生きている岩 1葬儀に向かう道 2育ち、死ぬ岩 3「自然/文化」を超えて――現代人類学の展開 4「生きている岩」 5エリフォウ島のサマニ 6島を造る人々 7「自然=文化」を記述する――ラトゥール以後の展開 8「岩」の死 9メラネシアにおける「自然=文化」――交換論の限界 第6章 沈む島々 1沈む埠頭と島々 2人新世を生きるアシ 3「生き存えること」の民族誌 4「海に住まうこと」の衰亡 5崩れゆく岩々 6析出される「自然」――ワグナーから「自然の人類学」へ 7「深み」と「地中」 8イメージとしての「自然」――ストラザーンにおける展開 9民族誌の自然— 「転回」以後の人類学的思考 10伐られた木 おわりに/あとがき/資料/註/索引 - 著者プロフィール - 里見 龍樹 (サトミ リュウジュ) (著/文) 1980年生まれ。早稲田大学人間科学学術院准教授。文化人類学、メラネシア民族誌。著書『「海に住まうこと」の民族誌』、共訳書ストラザーン『部分的つながり』、デ・カストロ『インディオの気まぐれな魂』など。
-
人間のはじまりを生きてみる 四万年の意識をたどる冒険|チャールズ・フォスター, 西田 美緒子(翻訳)
¥2,970
河出書房新社 2022年 ハードカバー 424ページ 四六変型判 縦198mm 横138mm 厚さ31mm - 内容紹介 - 狩猟採集時代、新石器時代、そして啓蒙時代……。森で暮らす奇才作家が、人類の歩みを実際に体験した哲学サバイバルエッセイ。 - 著者プロフィール - チャールズ・フォスター (フォスター,C) (著/文) オックスフォード大学グリーン・テンプルトン・カレッジのフェロー。ケンブリッジ大学で医療法と医療倫理の博士号を取得。獣医外科医の資格をもつ。旅行や哲学、法律などについての著書がある。 西田 美緒子 (ニシダ ミオコ) (翻訳) 翻訳家。津田塾大学英文学科卒業。訳書に『深海の庭園』、『音楽好きな脳』、『犬はあなたをこう見ている』、『FBI捜査官が教える「しぐさ」の心理学』、シリーズ『ダーウィン』、『マーガレット・ミード』など。
-
働くことの人類学【活字版】 仕事と自由をめぐる8つの対話| 松村圭一郎(編), コクヨ野外学習センター(編)
¥2,200
黒鳥社 2021年 B5変型判 - 内容紹介 - 文化人類学者が、それぞれのフィールドで体験した 知られざる場所の知られざる人びとの「働き方」。 それは、わたしたちが知っている「働き方」となんて違っているのだろう。 逆に、わたしたちはなんて不自由な「働き方」をしているのだろう。 狩猟採集民、牧畜民、貝の貨幣を使う人びと、 アフリカの貿易商、世界を流浪する民族、そしてロボット........が教えてくれる、 目からウロコな「仕事」論。 わたしたちの偏狭な〈仕事観・経済観・人生観〉を 鮮やかに裏切り、軽やかに解きほぐす、笑いと勇気の対話集。 ゲスト:柴崎友香/深田淳太郎/丸山淳子/佐川徹/小川さやか/中川理 /久保明教 目次 ◼️巻頭対談 ありえたかもしれない世界について 柴崎友香 + 松村圭一郎 【第1部|働くことの人類学】 貝殻の貨幣〈タブ〉の謎 深田淳太郎 ひとつのことをするやつら 丸山淳子 胃にあるものをすべて 佐川徹 ずる賢さは価値である 小川さやか 逃げろ、自由であるために 中川理 小アジのムニエルとの遭遇 久保明教 【第2部|働くこと・生きること】 2020年11月「働くことの人類学」の特別編として開催されたイベント「働くことの人類学:タウンホールミーティング」。 オンラインで4名の人類学者をつなぎ、参加者xの質問を交えながら「働くこと」の深層へと迫った白熱のトークセッション。デザインシンキングからベーシックインカムまで、いま話題のトピックも満載のユニークな「働き方談義」を完全収録。 深田淳太郎×丸山淳子×小川さやか×中川理 ホスト=松村圭一郎 進行=山下正太郎・若林恵 【論考】 戦後日本の「働く」をつくった25のバズワード 【働くことの図書目録】 仕事と自由をもっと考えるためのブックガイド 松村圭一郎/深田淳太郎/丸山淳子/佐川徹/小川さやか/中川理/久保明教/コクヨ野外学習センター 【あとがき】 これは「発信」ではない 山下正太郎 - 著者プロフィール - 松村圭一郎 (マツムラ ケイイチロウ) (編) エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークを続け、富の所有と分配、貧困や開発援助、 海外出稼ぎなどについて研究。著書に『所有と分配の人類学』(世界思想社)、『基本の30冊文化人類学』(人文書院)、『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)、編著に『文化人類学の思考法』(世界思想社)など。東京ドキュメンタリー映画祭 2018 の短編部門で『マッガビット~雨を待つ季節』、 同映画祭2020の特 集 「映像の民族誌」で『アッバ・オリの一日』が上映される。『ちゃぶ台』で「はじめてのアナキズム」、『群像』で「旋回する人類学」、西日本新聞で「人類学者のレンズ」を連載中。 コクヨ野外学習センター (コクヨヤガイガクシュウセンター) (編) コクヨ ワークスタイル研究所と黒鳥社がコラボレーションして展開するリサーチユニット/メディア。ポッドキャスト番組〈働くことの人類学〉、〈新・雑貨論〉、〈耳の野外学習〉を制作・配信中。https://anchor.fm/kcfr
-
言語が違えば、世界も違って見えるわけ | ガイ・ドイッチャー(著/文)椋田 直子(翻訳)
¥1,298
早川書房 2022年 ハヤカワ文庫NF ソフトカバー 464ページ 文庫版 縦157mm 横106mm 厚さ17mm - 内容紹介 - 古代ギリシャ人は世界がモノクロに見えていた? 母語が違えば思考も違う? 言語と認知をめぐる壮大な謎に挑む、知的興奮の書!
-
【アウトレット】増補改訂版 奇妙な孤島の物語 私が行ったことのない、生涯行くこともないだろう55の島 | ユーディット・シャランスキー, 鈴木 仁子(翻訳)
¥2,950
河出書房新社 2022年 ハードカバー 160ページ A5変型判 縦230mm 横158mm 厚さ12mm ※カバーに若干のダメージがあるため、少しお値段をさげております。 - 内容紹介 - 島は天国だ。地獄でもある――古今東西、風変わりなエピソードをもつ55の島々を史実に基づいて綴り、美しい地図と共に収録。「ドイツのもっとも美しい本」賞受賞。各国で絶賛を博した書。 - 著者プロフィール - ユーディット・シャランスキー (シャランスキー,ユーディット) (著/文) 1980年、東ドイツ生まれ。作家・ブックデザイナー。『奇妙な孤島の物語』は世界的ベストセラー。『失われたいくつかの物の目録』など、世界20か国以上で翻訳され、ヴィルヘルム・ラーべ賞など受賞多数。 鈴木 仁子 (スズキ ヒトコ) (翻訳) 1956年生。名古屋大学文学部卒業。名古屋大学大学院博士課程前期中退。名城大学非常勤講師を経て、椙山女学園大学国際コミュニケーション学部准教授。訳書に『アウステルリッツ』『よそ者たちの愛』他多数。
-
歴史を変えた50人の女性アスリートたち|レイチェル・イグノトフスキー, 野中 モモ(翻訳)
¥1,980
創元社 2019年 ハードカバー 128ページ A4変型判 縦235mm 横198mm 厚さ17mm - 内容紹介 - 「女は弱い!」としめ出されていた近代スポーツ界に飛びこみ、圧倒的な能力と粘り強さで記録と歴史をぬりかえてきた女性アスリート50人にスポットをあて、その驚くべき成績やバイタリティあふれる人生をチャーミングなイラストとともに紹介します。 女性には不可能だと言われてきたことの誤りを、鍛えぬいた身体と不屈の精神で堂々と証明したヒロインたちの姿は、若きアスリートのみならず、自分の限界をこえたいと願うすべての人を励ましてくれます。 <本書の見どころ> ●近代スポーツの歴史を切り拓いてきた、パワフルな女性アスリート50人(+α)を紹介 ●競技成績からプライベートな一面まで、エネルギーに満ちた女性アスリートたちの人生の物語を簡潔に学べます ●若手女性イラストレーターによるおしゃれなイラストが満載。ビジュアルブックとしても楽しめます ●歴史年表や筋肉解剖学、男女間の報酬とメディア格差統計など、図解コラムも充実 ●本文のおもな漢字にルビつき。未来のアスリートを応援します ●日本版だけの描きおろしイラストも多数収録! <こんな人が載っています> ガートルード・エダール(長距離水泳選手)、福田敬子 (柔道家)、トニ・ストーン(野球選手)、田部井淳子 (登山家)、ジョディ・コンラッド (バスケットボール監督)、ビリー・ジーン・キング (テニス選手)、フロー・ハイマン (バレーボール選手)、スーザン・ブッチャー (犬ぞり操縦者)、ナディア・コマネチ (体操選手)、アンジャリ・バグワット (射撃選手)、シャンタル・プチクレール (車いす陸上競技選手) 、キム・スニョン (アーチェリー選手) 、クリスティ・ヤマグチ (フィギュアスケート選手)、ミア・ハム (サッカー選手)、セリーナ・ウィリアムズ (テニス選手)、ニコラ・アダムズ (ボクサー)、マリアナ・パホン (BMX自転車選手)、シモーネ・バイルズ (体操選手)など… 目次 False - 著者プロフィール - レイチェル・イグノトフスキー(Rachel Ignotofsky) アメリカ・ニュージャージー出身、カンザス在住の若手女性イラストレーター。2011年にアート・グラフィックデザインの専門学校タイラー校を優秀な成績で卒業し、その後は特に歴史や科学、また教育、ジェンダーなどをテーマにしたイラストを多く書いている。著書に「Women in Science」「I love Science」「PLANET EARTH」(いずれも10 Speed Press)がある。 野中モモ(のなか・もも) 翻訳者・ライター。訳書にロクサーヌ・ゲイ『飢える私 ままならない心と体』(亜紀書房、2019年)、レイチェル・イグノトフスキー『世界を変えた50人の女性科学者たち』(創元社、2018年)、ダナ・ボイド『つながりっぱなしの日常を生きる ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの』(草思社、2014年)など。著書に『デヴィッド・ボウイ 変幻するカルト・スター』(筑摩書房、2017年)、共編著書に『日本のZINEについて知ってることすべて 同人誌、ミニコミ、リトルプレス 自主制作出版史1960 ~ 2010年代』(誠文堂新光社、2017年)がある。
-
マツタケ――不確定な時代を生きる術 | アナ・チン, 赤嶺 淳訳
¥4,950
みすず書房 2019年 ハードカバー 448ページ 19.6 x 13.8 x 3 cm - 内容紹介 - 「本書は、20世紀的な安定についての見通しのもとに近代化と進歩を語ろうとする夢を批判するものではない。……そうではなく、拠りどころを持たずに生きるという想像力に富んだ挑戦に取りくんでみたい。……もし、わたしたちがそうした菌としてのマツタケの魅力に心を開くならば、マツタケはわたしたちの好奇心をくすぐってくれるはずだ。その好奇心とは、不安定な時代を、ともに生き残ろうとするとき、最初に必要とされるものである」 オレゴン州(米国)、ラップランド(フィンランド)、雲南省(中国)におけるマルチサイテッドな調査にもとづき、日本に輸入されるマツタケのサプライチェーンの発達史をマツタケのみならず、マツ類や菌など人間以外の存在から多角的に叙述するマルチスピーシーズ民族誌。ホストツリーと共生関係を構築するマツタケは人工栽培ができず、その豊凶を自然にゆだねざるをえない不確定な存在である。そうしたマツタケを採取するのも、移民や難民など不安定な生活を余儀なくされてきた人びとである。生態資源の保護か利用かといった単純な二項対立を排し、種々の不確定性が絡まりあう現代社会の分析にふさわしい社会科学のあり方を展望する。 「進歩という概念にかわって目を向けるべきは、マツタケ狩りではなかろうか」。 目次 絡まりあう プロローグ 秋の香 第一部 残されたもの 1 気づく術 2 染めあう 3 スケールにまつわる諸問題 幕間 かおり 第二部 進歩にかわって――サルベージ・アキュミュレーション 4 周縁を活かす フリーダム…… 5 オレゴン州オープンチケット村 6 戦争譚 7 国家におこったこと――ふたとおりのアジア系アメリカ人 移ろいゆきながら…… 8 ドルと円のはざま 9 贈り物・商品・贈り物 10 サルベージ・リズム――攪乱下のビジネス 幕間 たどる 第三部 攪乱――意図しえぬ設計 11 森のいぶき マツのなかからあらわれる…… 12 歴史 13 蘇生 14 セレンディピティ 15 残骸 ギャップとパッチで…… 16 科学と翻訳 17 飛びまわる胞子 幕間 ダンス 第四部 事態のまっただなかで 18 まつたけ十字軍――マツタケの応答を待ちながら 19 みんなのもの 20 結末に抗って――旅すがらに出会った人びと 胞子のゆくえ――マツタケのさらなる冒険 マツタケにきく――訳者あとがき 本書で引用された文献の日本語版と日本語文献 索引 - 著者プロフィール - アナ・チン (アナチン) (著/文) カリフォルニア大学サンタクルス校文化人類学科教授。エール大学を卒業後、スタンフォード大学で文化人類学の博士号を取得。フェミニズム研究と環境人類学を先導する世界的権威。おもにインドネシア共和国・南カリマンタン州でフィールドワークをおこない、森林伐採問題の社会経済的背景の重層性をローカルかつグローバルな文脈からあきらかにしてきた。著書にIn the Realm of the Diamond Queen: Marginality in an Out-of-the-Way Place (Princeton University Press, 1993), Friction: An Ethnography of Global Connection (Princeton University Press, 2004), The Mushroom at the End of the World (Princeton University Press, 2015)など、多数。 赤嶺淳 (アカミネジュン) (翻訳) 一橋大学大学院社会学研究科教授。専門は東南アジア地域研究・食生活誌学。ナマコ類と鯨類を中心に野生生物の管理と利用(消費)の変容過程をローカルな文脈とグローバルな文脈の絡まりあいに注目し、あきらかにしてきた。著書に『ナマコを歩く――現場から考える生物多様性と文化多様性』(新泉社、2010)『鯨を生きる――鯨人の個人史・鯨食の同時代史』(吉川弘文館、2017)『生態資源――モノ・場・ヒトを生かす世界』(山田勇・平田昌弘との共編著、昭和堂、2018)など。訳書にアナ・チン『マツタケ』(みすず書房、2019)など。
-
ハレルヤ村の漁師たち スリランカ・タミルの村 内戦と信仰のエスノグラフィー|初見 かおり
¥3,080
左右社 2021年 ハードカバー 352ページ 四六判 - 内容紹介 - ふるさとの漁村から、激しい空爆を生き延び、たどり着いた海もない「ハレルヤ村」。 反政府ゲリラ軍と政府軍との双方に追われたタミルの人びとに 「本当に起きたこと」とは何だったのか。 爆薬を用いたテロ攻撃、性暴力を伴う残忍な殺人、暴力事件のやまぬなか、 著者は繰り返し現地を訪れ、村人たちの生活に身を沈めた。 数百年にわたり貫かれてきたカトリックへの信仰、 村を挙げての徹夜のミサのようすを描き、 国際社会からも忘れられつつある人びとに寄り添う、 エスノグラフィの新しい達成。 今、この教会に集合している一人ひとりは、生きてヴァンニの戦場を脱出してきた人たちだ。政府軍による空爆に追われながら、わずかな食べ物を探し回り、脱出の機会を待ち続けた人たちだ。つねに自分の身を優先しなければならない状況に追い込まれ、すべてを後に残してきた人たちだ。力尽きた者たちを、後に残してこなければならなかった人たちだ。(本文より) 目次 第一部 ハレルヤ村との出会い 一、行き止まり──二〇〇六年夏 二、最大の問い──二〇〇七年夏 第二部 ヴェラ家と周辺の人びとの物語 三、バトル・オヴ・ヴァンニ──二〇〇九年四月 四、クエートから届いた柩──二〇〇九年十月~十一月 第三部 シシリア婆さんの帰郷 五、不思議な行進──二〇一〇年三月 六、イエスの柩──二〇一〇年四月 参考文献・読書案内 あとがき 前書きなど 今、この教会に集合している一人ひとりは、生きてヴァンニの戦場を脱出してきた人たちだ。政府軍による空爆に追われながら、わずかな食べ物を探し回り、脱出の機会を待ち続けた人たちだ。つねに自分の身を優先しなければならない状況に追い込まれ、すべてを後に残してきた人たちだ。力尽きた者たちを、後に残してこなければならなかった人たちだ。(本文より) - 著者プロフィール - 初見 かおり (ハツミ カオリ) (著/文) 1980年生、文化人類学博士(コロンビア大学)。九州大学サイエンスコミュニケーター。論文に「Beyond methodological agnosticism: Ritual, healing, and Sri Lanka’s civil war(方法論としての不可知論を超えて)」(The Australian Journal of Anthropology)などがある。他者を理解するための方法としての文化人類学の魅力を発信することに関心がある。
-
葬いとカメラ|金 セッピョル, 編集)地主 麻衣子
¥1,980
左右社 2022年 ソフトカバー 200ページ 四六変型判 - 内容紹介 - アーティストと文化人類学者らが考えた「葬い」を記録することについて。両者の視点から「死」と「葬い」を見つめた先に見えてきたものは…… 身寄りがなくなり、壊される無縁仏 自然葬をすることにした家族の葛藤 葬儀を撮ることの暴力性 在日コリアンのお墓 研究映像とアート作品 簡素化される葬儀と、葬いの個人化 誰もが直面する「死」と、残された者の「葬い」という営みを、どのようにとらえることができるのだろうか。 本書では主に映像によって記録するという行為を通じて、死や葬いを普遍的にとらえなおすことを試みるものである。
-
「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか?|久保明教(著)
¥2,200
コトニ社 2020年 ソフトカバー 216ページ 四六変型判 - 内容紹介 - 作って、食べて、考える。 「私、結婚したら毎日違う料理を作るんだ!」ある先輩が発したこの言葉に誘われるように、文化人類学者は「家庭料理」というフィールドにおもむく。 数々のレシピをもとに調理と実食を繰り返し、生活と学問を往復しながら家庭料理をめぐる諸関係の変遷を追跡する。 心を込めた手作りが大事なのか、手軽なアイデア料理が素晴らしいのか、家族がそれぞれ好きに食べる個食はなぜ非難されるのか、市販の合わせ調味料は「我が家の味」を壊すのか、レシピのデータベース化は何をもたらしたのか、私たちは暮らしを自由にデザインできるのか? 家庭料理をめぐる様々な問いと倫理が浮かびあがり、それらが互いに対立しながら部分的につながっていく。 日々の料理を作り食べること、それは暮らしという足下から私たち自身を考えることにつながっている。 【目次】 はじめに――毎日違う料理を作るんだ! 第一章 わがままなワンタンとハッシュドブラウンポテト 暮らし、見えない足下/美味しい時短/消費社会下の家庭料理/ゆとりの天才/静かな戦い 実食! 小林カツ代×栗原はるみレシピ対決五番勝負(前半戦) 第1戦 昼の副菜「キューカンバーサラダ×自家製ピクルスミックス」 第2戦 昼の主菜「じゃが芋スパゲティ×スパゲッティミートソース」 第二章 カレーライスでもいい。ただしそれはインスタントではない 手作りと簡易化/村の味/毎日がごちそう/ねじれた継承/贈与の拠点 実食! 小林カツ代×栗原はるみレシピ対決五番勝負(後半戦) 第3戦 夜の副菜「大根たらこ煮×じゃがいものニョッキ、レンジトマトソース」 第4戦 夜の主菜「食べるとロールキャベツ×煮込みれんこんバーグ」 第三章 なぜガーリックはにんにくではないのか? 正しい料理/脱構築の末路/欲求を知り、満たす/にんにくではダメなんです/「我が家の味」のデータベース/動物的消費の彼方/ホワイトキューブのもそもそメシ 実食! 小林カツ代×栗原はるみレシピ対決五番勝負(最終戦) 第5戦 夜の汁物「なすとそうめんの汁×かぼちゃの冷たいスープ」 レシピ五番勝負を終えて おわりに――暮らしはデザインできるか? 目次 はじめに――毎日違う料理を作るんだ! 第一章 わがままなワンタンとハッシュドブラウンポテト 暮らし、見えない足下/美味しい時短/消費社会下の家庭料理/ゆとりの天才/静かな戦い 実食! 小林カツ代×栗原はるみレシピ対決五番勝負(前半戦) 第1戦 昼の副菜「キューカンバーサラダ×自家製ピクルスミックス」 第2戦 昼の主菜「じゃが芋スパゲティ×スパゲッティミートソース」 第二章 カレーライスでもいい。ただしそれはインスタントではない 手作りと簡易化/村の味/毎日がごちそう/ねじれた継承/贈与の拠点 実食! 小林カツ代×栗原はるみレシピ対決五番勝負(後半戦) 第3戦 夜の副菜「大根たらこ煮×じゃがいものニョッキ、レンジトマトソース」 第4戦 夜の主菜「食べるとロールキャベツ×煮込みれんこんバーグ」 第三章 なぜガーリックはにんにくではないのか? 正しい料理/脱構築の末路/欲求を知り、満たす/にんにくではダメなんです/「我が家の味」のデータベース/動物的消費の彼方/ホワイトキューブのもそもそメシ 実食! 小林カツ代×栗原はるみレシピ対決五番勝負(最終戦) 第5戦 夜の汁物「なすとそうめんの汁×かぼちゃの冷たいスープ」 レシピ五番勝負を終えて おわりに――暮らしはデザインできるか? 前書きなど ※以下は、本書「はじめに――毎日違う料理を作るんだ!」の草稿です。書籍とは細部が異なる場合があります。 一五年ほど前のある日の晩、私は大学院ゼミの飲み会に参加していた。結婚を機に大学院をやめることになった先輩の送迎会だった。「私、結婚したら毎日違う料理を作るんだ!」と彼女は嬉しそうに宣言した。好奇心旺盛で多趣味多芸な人であったから、おそらく先輩は実際に毎日違う料理を作ろうとしたのだろう。 彼女の計画はとても魅力的に思えた。だが、毎日まったく違う料理を作り、食べる暮らしとはどのようなものだろうか。美味しい料理ができたらまた作りたくならないか。昨晩のカレーを朝食に供したらダメだろうか。冷蔵庫に賞味期限まぢかの豆腐を見つけて「今日も冷奴でいいか」とはならないのか。それに、家庭料理には似たような品目が少なくない。ミートボールとハンバーグ、ビーフストロガノフとハヤシライスはまったく別の料理ではないし、細かいアレンジも可能だ。ビーフストロガノフを作ろうとして高い牛肉しか売っていなければ安い豚肉を使えばいい。生活とはそんなものではないだろうか? 先輩の宣言を私がいつまでも忘れられないのは、そこに「暮らしは自由にデザインできる」という新しい発想の輝かしさと苦しさを嗅ぎつけたからだと思う。私自身もまた、学問に携わってきたこの十数年のあいだ、週の半分以上はスーパーに通って夕食を作り、献立に悩んだり、弁当のおかずに苦慮してきた。料理研究家の本やレシピ投稿サイトを調べて目先の変わった料理を作ることは楽しいし、「美味しい」と言われれば嬉しい。だが、毎日まったく違う料理を作ることはなかった。 近所のスーパーで野菜売り場から入りつつ夕飯の献立を考えるとき、私は微かな喜びと確かな苦痛を感じる。さぁ、今日も楽しい料理の時間だ。売り場にはまだ試したことのない多様な商品が並んでいる。スマホを使えば膨大なレシピを検索できる。頑張ればなんでも作れるし、きっと新しい味と出会えるだろう。 だがそれは、限られた予算と時間と疲れた身体が許すかぎりでしかない。目先の変わったレシピは親しい人の口にあわないかもしれない。定番の一品はそろそろ飽きられるかもしれない。生ごみの日はもう過ぎたから骨が残る魚は買いにくい。レタスかキャベツが残っていた気がするが、あれはもう腐っていないか……。あぁ、もう疲れた、今夜は居酒屋にでも行こうか。だけど最近外食が続いたから家で食べたいしなぁ……。 自らの些細な選択が、暮らしに緩慢な亀裂を刻んでいく。やっぱり毎日ちがう料理を作るなんて無茶な話だ。暮らしとは同じことの繰り返しを丁寧にやりくりしていくことではないのか。だが、それもまた膨大な選択肢のなかで特定の「ルーティン」を選びとることでしかないように思える。微かな希望と絶望を伴って家庭料理が作られ、食べられる場。それは、自らの一挙一動が、極めて間接的な仕方であれ、生と死に関わる戦場である。 本書は、家庭料理をめぐる学問的な考察と日常的な経験を横断しながら綴られている。それは、一面において科学技術の人類学を専門とする筆者が身につけてきた学問的観点から一九六〇年代から二〇一〇年代に至る家庭料理の変遷を記述するものであるが、社会的・文化的背景を周到に配置することでそれを外側から客観的に分析しようとするものではない。本書における題材の選択や考察の切り口は、前述した筆者に固有の日常的経験によって規定されている。だが、それは一人の生活者としての経験に根ざした主観的な観察に研究者としての知識を添えた学術的エッセイでもない。 本書執筆に先立って、私は一九六〇~二〇一〇年代に刊行された様々なレシピ本を収集し、実際にそれらを参考にしながら多くの料理を作っている。世界各国のマイナーな料理を扱う近年のレシピ本よりも、自分が生まれる前に刊行された料理書のほうが新奇な味に出会うことが多かった。例えば、『江上トミの材料別おかずの手本』(一九七四年、世界文化社)に収められた「小あじのムニエル」は、茹でて裏ごししたジャガイモにバターで炒めた玉ねぎとパセリを混ぜ、生卵を加えて四角に成型してから、背開きにして中骨をとり小麦粉をまぶした小あじに挟んでバターで焼き、茹でたシェルマカロニと輪切りトマトをバターで焼いて添えた料理である。「小あじ、ジャガイモ、トマト」という入手しやすい食材を用いながらもバターを多用した重厚な洋風魚料理であり、焼き付けたトマトのすっぱさとシェルマカロニのもちゃもちゃした触感があわさって大変に美味しい一品となっている。 しかしながら、その「美味しさ」は二〇一〇年代末における筆者の暮らしの中では極めてすわりの悪いものでもあった。手間も時間もかかるわりに見た目は地味だし、副菜や汁物をどうあわせてよいかも分からない。「小あじのムニエル」が御馳走でありえた一九七〇年代前半の状況(高速道路やスーパーによる流通の発展、洋食への憧れ、魚屋の全国的増加など)から遠く離れた現代の食卓において、その味わいはどこか的外れに感じられてしまう。 「小あじのムニエル」を現代風にアレンジすれば、小あじを骨のないサーモンに替え、ジャガイモはレンジで加熱して裏ごしは省き、焼きトマトとシェルマカロニの代わりにミニトマトとベイビーリーフを添え、粒マスタードにマヨネーズを和えたソースをかけた「サーモンのポテトサンド焼き」になるかもしれない(一度試したが調理も簡単で美味しかった)。 だが、この料理は江上レシピのまま何度か食卓に上った。スパイスカレーのような新奇な題材を扱っていても現代に即した調整が施されたレシピと比べて、江上トミの料理には特異な味わいがあり、筆者の暮らしはその味わいを通じて慣れ親しんだものとは異なる諸要素と結びつくことになる。 暮らしも研究も、諸々の要素と多様な関係を結ぶことによって進行する。文献やレシピ本や調理を通じて、筆者は家庭料理をめぐる諸関係の網の目(ネットワーク)をたどってきた。 研究者としても生活者としても、私はそのネットワークに内在しており、外側からそれを客観的に分析することはできない。たしかに、様々な要素と新たな関係をむすぶことを通じてそれらの諸関係を外側から捉える認識は生じる。だが、それは私=観察者が内在するネットワークの運動が産出する一時的な把握に他ならない。新たな関係をたどることで競合する外在的認識が浮上し、それらの齟齬が新たな要素との関係を導く。私が親しんできた現代の家庭料理レシピは多種多様に思われたが、「小あじのムニエル」の特異な味わいに触れることでそれらの均質性が見えてくる。「サーモンのポテトサンド焼き」は簡単で美味しいが、味の広がりは限定されている。その認識は、さらに、細やかな下ごしらえ(小あじの中骨をとって背開きにし、ジャガイモを裏ごしするといった作業)が「料理を美味しくするひと手間」とはされ難くなってきた家庭料理をめぐる諸関係の歴史的変容へ観察者を誘っていく。 このように、本書の記述は、客観的観察や主観的経験に基づくものではなく、関係論的に構成されている。ネットワークに内在する観察者が様々な要素と結びつくことによって、そこで生じる外在的な認識が共立し共振しながら変容し、新たな関係性の組み替えが喚起される。学問的論述でもエッセイでもなく、絶えず両者の狭間を動き続けるような本書の記述に対して、困惑や違和感を覚える読者もいるだろう。そもそも家庭料理をめぐる経験や認識は人によって極めて多様であり、それは「これが一般的な家庭料理だ」という認識自体の差異を伴っている。筆者がたどる諸関係が、読者になじみのある諸関係と完全に一致することはないだろう。取り上げる事柄が断片的だと思われるかもしれないし、記述を通じて浮かびあがる価値判断のいくつかは受け入れがたいと思われるかもしれない。 だが、本書は家庭料理という事象をそのような異議や議論を呼ぶものとして提示するために書かれている。各章のあいだに置かれた「実食! 小林カツ代×栗原はるみレシピ対決五番勝負」もまた、具体的なレシピと筆者や友人たちのコメントを通じて――もちろん共感できる箇所も違和を感じる箇所もあるだろうが――本文の記述と読者の経験を関係づけてもらうためのものである。記述を通じて諸関係が組み替えられ、相異なる価値や倫理が浮上し共立し互いに変容していく。そうしたプロセスを通じて、料理や暮らしや学問をめぐる思考と実践を再考し、再構成していく媒介として本書は読者の前に提示されることになる(前著『ブルーノ・ラトゥールの取説』の読者には意外と思われるだろうが、本書は、同書で構想した方法論、とりわけ終盤で素描した「汎構築主義」をめぐる論点を具体的事例に即して展開したものである)。 「毎日違う料理を作るんだ!」という先輩の宣言から一五年ほど経過した現在、「暮らしは自由にデザインできる」という発想はより一般的になったように思われる。「自己分析」や「拡張現実」や「ライフハック」といった言葉の広まりは、「自己」や「現実」や「生活」が所与の条件(出身地や階級や社会構造など)によって規定されるものとはみなされなくなってきたことを示している。もちろん、そうした条件がまったく影響力を失ったわけではないが、それらを対象化して分析し拡張し改変することによって、私たちはより自由に自分らしく生きていくことができる。こうした発想が普及し称揚され規範化されるにつれて、「生活」は逃れえない必要性の源泉ではなく、自由なデザインの対象として把握されるようになる。 その結果、生活は学問的分析へと接近する。近年ではインターネットやスマートフォンを通じて専門的知識へのアクセスがより簡易化され、客観的な事実だけでなく学問的な視角自体を生活に導入することが容易になってきた。家事の見える化、鍵付きアカウントによる同調圧力への抵抗、消費社会批判としてのミニマリスト的消費。暮らしを対象化しデザインしていく実践において、生活を分析する学問的視角自体が生活の一部に組み込まれる。社会を外側から観察できるはずの社会科学的知は、それ自体が社会の内部に浸透することによってその俯瞰性を失っていく。だが、外在的な知もまた内在的な諸関係の暫定的産出物だと考えれば、知の再帰性を通じた俯瞰性の喪失は諸関係の内在的な組み替えの可能性へと変換される。家庭料理をめぐる諸関係の変遷をたどることによって異なる認識が共立し、それらの対立や摩擦を伴う相互作用が新たな諸関係の組み替えを喚起していく。その運動の只中において、自らの感覚や思考や営為を捉え直し、再構成してもらう踏み台となるために本書は書かれている。 では、記述をはじめよう。 版元から一言 前著『ブルーノ・ラトゥールの取説』(月曜者、2019)で構想した方法論を「家庭料理」という身近で具体的な事柄に即して展開しながら、「暮らしをデザインすること」について問います。 また、江上トミ、土井勝、小林カツ代、栗原はるみ、土井善晴ら著名な料理研究家の系譜も辿りながら、家庭料理60年の栄光と挫折をあぶり出します。 学術論文とエッセイのあいだのような文体と構成になっています。 - 著者プロフィール - 久保明教 (クボアキノリ) (著) 一橋大学社会学研究科准教授。1978年生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科単位取得退学。博士(人間科学)。専攻は、文化/社会人類学。主な著書に、『ブルーノ・ラトゥールの取説ーーアクターネットワーク論から存在様態探求へ』(月曜社、2019年)、『機械カニバリズムーー人類なきあとの人類学へ』(講談社、2018年)、『ロボットの人類学ーー二〇世紀日本の機械と人間』(世界思想社、2015年)など。
-
フィールド言語学者、巣ごもる。 | 吉岡 乾
¥1,980
創元社 2021年 ソフトカバー 288ページ 四六判 縦188mm 横128mm 厚さ20mm - 内容紹介 - 話題書『現地嫌いなフィールド言語学者、かく語りき。』 著者による、待望の新刊! フィールドへ出られなくなったフィールド言語学者が語る、 最高におもしろい言語学のはなし。 * 著者は、大阪の国立民族学博物館に勤務するフィールド言語学者。パキスタンとインドの山奥で話者人口の少ない言語を調査しているが、2020年は世界規模の新型コロナウイルス感染症蔓延でフィールドへ出られなくなり、長らく「巣ごもり」をすることとなった。本書は、著者がそのような生活の中で、日常に溢れる様々な現象を言語学者目線で眺めて考えたことを綴った言語学エッセイ。世界の多種多様な言語の例を用いながら、言語学の諸分野の知識が親切かつユーモアたっぷりに語られる、最高の知的エンターテイメント。イラスト:朝野ペコ * ●「はじめに」より一部抄録 日常には言語が溢れている。言語が溢れていないところは、人間の居ないところだけだ。 言語学者は言語を食い物にしている。言葉を選ばなければ。だが、その事実を改めて大っぴらにしてしまうと、「危機言語が消滅したら、言語多様性が失われたら、マズいよね!」などと言語学者が幾ら声高に、意識高そうに訴えたところで、「我々の餌がなくなりそうだから、皆も気を付けて!」に聞こえてしまって白々しく響きそうだから、言葉遣いには気を配らなければならない。開けっ広げにそんな言いかたをするのは止そう。ちなみにここでの「我々」は聞き手(あなた)を包括していない。聞き手(あなた)を除外した集合である。 もとい、言語学者は言葉に意識を向けがちである。憖(なまじ)っか言語について考える思考基盤の知識を身に纏ってしまっているため、意図的にその意欲を封じ込めない限り、不図した瞬間、耳目に触れた言葉を、言語学的に矯(た)めつ眇(すが)めつ愛で始めてしまったりするのが、言語学者の多数派である。僕はそう信じている。怠惰な生活態度に定評のありそうな僕ですらそうなんだもの、他の研究者たちはもっと熱心に物思いに耽っているに違いあるまい。 言語学メガネを着用すると、日常の暮らしの中に、隠された一面が伏流のように存在しているのが、さもAR(拡張現実)かの如くに見えてくるのだ。 本書は、フィールド言語学者である僕が、高尚さのかけらもなしに、そんなふうに言語学目線で漫ろに思った日々のアレコレを詰め込んだ一冊となっている。フィールド研究者を謳っていながら、世界規模の新型コロナウイルス感染症蔓延でフィールドに出られなくなり、テレワークも推奨されて、二〇二〇年の春以降は長らく「巣ごもり」をすることとなった。そしてそんな妙な事態になったものだから、時間の余裕ができるかもなどと勘違いして、筆のまにまに書き出したのである。……(以下略) 目次 ※制作中のため、変更が生じる可能性があります。 はじめに 言語学概念図 Ⅰ. ▼言語学が何をして何をしないか 言語学がすること/言語学がしないこと/言語学で夢を見られるか ▼文法のない野蛮な言語を求めて ブルシャスキー語と出合った/そして「文法のない言語」に出合った ▼語学挫折法 ちゃんとした発音を身に付ける/毎日欠かさず続ける/本気になれる動機を作る/語学継続法 ▼喋る猫のファンタジー 猫の言語の研究の古今東西/人語を話す猫を科学する ▼差別用語と言葉狩り 言語表現の曖昧さ/協調性と文脈による支えが理解を絞り込む/「差別用語」という幻想 ▼僕は言葉 私の僕と俺/言葉とキャラ/敬語と距離感/言葉とアイデンティティ/言葉は映りの悪い鏡 Ⅱ ▼日常をフィールド言語学する しがない関西弁のメモ書き/動画配信サイトをフィールドワークする/漫画をフィールドワークする/生の言葉を相手取ってこそ ▼【緊急】リモート調査チャレンジ 「 」研究者/リモート調査の試み ▼翻訳できないことば 翻訳と意味/語彙は構造をなしている/言葉による概念の切り分け/言葉にへばり付いたイメージ/各人の頭の中の百科全書 ▼言語が単一起源ではない理由 生物の樹形図と言語/生命体の化石、言語の化石 ▼淘汰されたプロの喩え話 様々な言い換え表現/見立て・擬え/歴々のミームたち ▼無文字言語の表記法を編み出すには 文字のメリットと、個別に書かれ始める無文字言語/文字化することの難しさ/社会的問題と綴り字の癖と/骨折り損は避けたいので ▼例のあのお方 ハリー・ポッターと例のあのお方/区別する音の違いと借用語への姿勢/ハリー・ポッターと個々のキャラ名/外来語に開拓される発音の幅 Ⅲ ▼どうして文法を嫌うのか ルールは類推を可能にし、表現力を爆増させる/新表現を書き散らかす/深掘りで文法は面白くなりだす ▼軽率に主語を言えとか言う人へ 主語とは何か/助詞の「が」が付いたものは?/主語でも主格でもない、主題 ▼意味と空気 意味とは何かを考える/意味以外の意味 ▼語とは何か 通言語的な「語」の定義/「猫が鳴く」の語数は?/音韻的な側面から/分離のし易さ・し難さを考慮する/結局、「語」とは何か ▼ことばの考古学 どうやって言語を手掛かりとするか(一)/どうやって言語の手掛かりを発掘するか/どうやって言語を手掛かりとするか(二) ▼日本語はこんなにも特殊だった 日本語は平凡である/日本語は平凡とも稀有とも言い難い/日本語は稀有である ▼なくなりそうな日本のことば 琉球諸語は日本語とは別の言語なのか/話題に上がることの少ないもう一つの言語/日本の大きい言語から小さい言語まで/冒頭から僕は「日本で話されている言葉」と言っていた おわりに 言語解説 参考文献 - 著者プロフィール - 吉岡 乾 (ヨシオカ ノボル) (著/文) 国立民族学博物館准教授。専門は記述言語学。博士(学術)。1979年12月、千葉県船橋市生まれ。2012年5月、東京外国語大学大学院博士課程単位取得退学。同9月に博士号取得。博士論文の題は「A Reference Grammar of Eastern Burushaski」。2014年より、現職。 大学院へ進学した2003年よりブルシャスキー語の研究を開始し、その後、パキスタン北西部からインド北西部に亙る地域で、合わせて7つほどの言語を、記述的に調査・研究している。著書に『なくなりそうな世界のことば』『現地嫌いなフィールド言語学者、かく語りき。』(ともに創元社)。
-
はみだしの人類学 ともに生きる方法|松村 圭一郎
¥737
NHK出版 2020年 ソフトカバー 120ページ A5判 - 内容紹介 - 「わたし」と「あなた」のつながりをとらえ直す そもそも人類学とは、どんな学問なのか。「わたし」を起点に考える「つながり方」とは何か? 「直線の生き方と曲線の生き方」「共感と共鳴のつながり」……。「違い」を乗りこえて生きやすくなるために。「人類学のきほん」をもとに編み出した、これからの時代にこそ必要な「知の技法」のすすめ。 第1章 「つながり」と「はみだし」 第2章 「わたし」がひらく 第3章 ほんとうの「わたし」とは? 第4章 差異とともに生きる 目次 第1章 「つながり」と「はみだし」 第2章 「わたし」がひらく 第3章 ほんとうの「わたし」とは? 第4章 差異とともに生きる - 著者プロフィール - 松村 圭一郎 (マツムラ ケイイチロウ) (著/文) 1975年、熊本県生まれ。京都大学総合人間学部卒。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。岡山大学文学部准教授。専門は文化人類学。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークを続け、富の所有と分配、貧困や発援助、海外出稼ぎなどについて研究。著書に『所有と分配の人類学』(世界思想社)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院)、『うしろめたさの人類学』(ミシマ社、毎日出版文化賞特別賞)、『これからの大学』(春秋社)、共編著に『文化人類学の思考法』(世界思想社)がある。
-
人類堆肥化計画 | 東 千茅
¥1,870
創元社 2020年 ソフトカバー 256ページ 縦178mm 横128mm 厚さ19mm - 内容紹介 - 潔癖文化に抑圧された腐爛の分解世界を、艶やかに解放する実践の書。 ――藤原辰史(歴史研究者) 東千茅氏は、私が文学でやりたかったことを背徳の里山でやりまくっている極悪人だ! ――吉村萬壱(小説家) 生きることの迫真性を求めて、都会から奈良の里山へ移り住んだ若き農耕民が構想する、生き物たちとの貪欲で不道徳な共生宣言。一般に禁欲や清貧といった観念に結び付けられている里山を、人間を含む貪欲な多種たちの賑やかな吹き溜まりとして捉え直し、人間と異種たちとの結節点である堆肥を取り上げながら、現代社会において希釈・隠蔽されている「生の悦び」を基底から問い直す。本当に切実な問いと、根底を目指す思考とを、地についた生活に支えられた文章で表した、読む人に鮮烈な印象を与える第一著作。 「もとよりわたしは何者でもなく、何者かであろうとも思わない。当然、守るべき社会的立場など持ち合わせていない。しかし、だからこそ語りうる言葉があると思う。わたしは何の実績もない無名の落後者に違いないが、土の上では誰でも一匹の生き物なのであり、地位や肩書はかえって邪魔なものだ。わたしがつねに求めているのは、お行儀のいい言説ではなく、「ほんとうに切実な問いと、根底を目指す思考と、地についた方法」だけである。」(あとがきより) 目次 はじめに 登場生物 腐臭を放つ 腐敗の先の里山生活 腐っている里山 氷砂糖も欲しがる 一三八億年の蕩尽 春 堆肥へ 自己堆肥化願望 欣求壌土 生物学的腐敗と道徳的腐敗 腐爛生体 夏 世界に逆らう 着陸する 移り住む 紛れ込む 森下さんとのあれこれ 秋 〈土〉への堕落 生前堆肥 伝染する堆肥男 扉を開く 寝転ぶ 甘やかす 同じ穴の貉たちを愛しぬく 希望の闇のほうへ 冬 おわりに 著者プロフィール 東 千茅 (アズマ チガヤ) (著/文) 東 千茅(あづま・ちがや) 農耕者、里山制作団体「つち式」主宰。一九九一年三月、大阪府生まれ。二〇一五年、奈良県宇陀市大宇陀に移り住み、ほなみちゃん(稲)・ひだぎゅう(大豆)・ニック(鶏)たちと共に里山に棲息。二〇二〇年、棚田と連続する杉山を雑木山に育む二百年計画「里山二二二〇」を開始する。著書に『つち式 二〇一七』(私家版 二〇一八)、「『つち式 二〇一七』著者解題」(『たぐいvol.1』亜紀書房、共著 二〇一九)。
-
ひび割れた日常 人類学・文学・美学から考える | 伊藤 亜紗, 奥野 克巳, 吉村 萬壱
¥1,760
亜紀書房 2020年 四六変型判 192ページ - 内容紹介 - 未曾有の危機を前にして、私たちは「何を考えればよいのか」を見失ってしまった――。 「人間の想像力の果て」からやってきたウイルスによって、我々の日常に無数のひびが走った。 消せない不安と変化を余儀なくされた日々の営みを前に、思考の足場をどこに築けば良いのか。 生命、自然、生と死、共生と敵対。 いま浮上する課題をめぐって、三人の異才がアイディアを持ち寄り、変奏し、問いを深めていくリレーエッセイ。 目次 Ⅰ ・はじめに――禍の街から、生命と自然のゆくえを見つめる ・ウイルスは我々に何を伝えに来たのか ・植物の時間 ・足し算的時間と合理のひび割れ ・元の日常という脅威 ・人間の体と植物の体 ・〈凝固した日常〉を突き刺すもの ・被造物の底 ・体を失う日 ・「いる」の喪失とは何か? ・死の無力さと分身の持つ力 ・コロナさん ・ようこそコロナちゃん ・聖なるもの ・垂直の家族、水平の家族 ・コロナとはうまくやっていけるかもしれないが、人間同士ではそうではないのかもしれない ・ヒトと人 ・グラブとアンパン ・アニミズム思考のほうへ ・二つの小説 ・意味の非人間性 ・覚知される世界、コロナの迷い ・堆肥男 ・胎盤とバースデーケーキ Ⅱ リレーエッセイを終えて ・生の全体性を取り戻す ・帯状疱疹ウイルスと私 ・想像力の果てからやってきた使者 ひび割れた日常を生きるためのブックガイド - 著者プロフィール - 伊藤 亜紗 (イトウ アサ) (著/文) 1979年生まれ。東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター、リベラルアーツ研究教育院准教授。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。2010年に東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻美学芸術学専門分野博士課程を単位取得のうえ退学。同年、博士号を取得(文学)。 主な著作に『手の倫理』(講談社メチエ)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)など。WIRED Audi INNOVATION AWARD 2017、第13回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody 賞(2020)受賞。 奥野 克巳 (オクノ カツミ) (著/文) 1962年生まれ。20歳でメキシコ・シエラマドレ山脈先住民テペワノの村に滞在し、バングラデシュで上座部仏教の僧となり、トルコのクルディスタンを旅し、インドネシアを一年間経巡った後に文化人類学を専攻。1994~95年に東南アジア・ボルネオ島焼畑民カリスのシャーマニズムと呪術の調査研究、2006年以降、同島の狩猟民プナンとともに学んでいる。現在、立教大学異文化コミュニケーション学部教授。 著作に、『モノも石も死者も生きている世界の民から人類学者が教わったこと』、『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(以上、亜紀書房)、『マンガ人類学講義』など多数。共訳書に、エドゥアルド・コー ン著『森は考える』、レーン・ウィラースレフ著『ソウル・ハンターズ』、ティム・ インゴルド著『人類学とは何か』(以上、亜紀書房)など。 吉村 萬壱 (ヨシムラ マンイチ) (著/文) 1961年愛媛県生まれ、大阪府育ち。1997年、「国営巨大浴場の午後」で京都大学新聞社新人文学賞受賞。2001年、『クチュクチュバーン』で文學界新人賞受賞。2003年、『ハリガネムシ』で芥川賞受賞。2016年、『臣女』で島清恋愛文学賞受賞。 最新作に『出来事』(鳥影社)。